2010/01/30

訃報

 親父殿が23日に他界しました。享年57歳。
 初七日も終わりましたがまだまだ三月頭までは忌中が続きます。

 家族は通夜と葬式合わせても「そんなに人も来ないだろう」とか言って200人くらいと見積もってたら、弔問客がものすごい数でトータル350人くらい来てもらったようです。まだ退職してない現役職員だったので職場の方にはなるべく遠慮頂いていたにも関わらずの数字なので度肝を抜かれてしまいました。

 我が父親ながら人徳があった人だったんだなぁと送る時にしみじみと感じました。

 思えば三年前の夏に私が東京へ就職のため実家を旅立つ時に、父親は既に病魔に冒されていました。半年くらいで激減した体重に不安を感じ、引っ越しで家を出て行く私を見送る父の顔を今でも思い出します。

 病気がはっきりとわかったのはそれから二ヶ月も経たない頃でした。
 色々あって実家に戻れたのはつい最近の12月末でしたが、親父殿はそれを待っていたかのようでした。
 年末からどんどんと体調が悪くなり、殆ど回復しないまま14日に入院、そのまま帰らぬ人となりました。

 すい臓がんが病名でしたが、進行が早いと言われるがんにも関わらず二年半ちかく抗がん剤だけでがんばってきました。がんの痛みも亡くなる数日前まで痛みはないと言っていましたので、苦しんだ時間はほとんど無かったと思います。

 22日の金曜日、亡くなる前日に私は病院へ夕方一人で行きました。
 虫の知らせと言うのでしょうか、母親が見舞いに行った後になんとなく黙って家を出て行ってきたのですが、親父殿は数日間ほとんど寝てばっかりで起きられない状態になっていました。
 一時間ほど寝顔を見て、それから晩御飯を食べるのを手伝って帰ってきたんですが、私が帰って数時間後に意識がなくなり、24時間後に息を引き取りました。
 最後の食事は、自分で頭をまっすぐに出来ずにうつむいて、器もまともに持てず、体に全く力が入っていませんでした。
 親父殿が目元を拭っていたのは、想像でしかないのですが、思うように体が動かない自分が悔しかったんだろうな、と。体調を戻すために入院したのに、どんどんと衰弱していく己が悔しかったんだろうなと思います。

 そんなこんなで、おそらく私が最後に父親の意識があったときに会話した最後の人間です。
 話すのも疲れてしまう状態だったので長い時間いるわけにもいかず、七時前くらいに私は病院を後にしました。
 弱々しく「あぁ、もうかえるん?」と言った親父殿の側に、なんでもう少しいてあげられなかったのだろうという後悔が無いかと言えば嘘になります。
 「明日も来るよ」とは言わず「また来るよ」と言ったのが親父殿にかけた最後の言葉になりました。

 23日、意識はあるものの混濁しているようで人の呼びかけに答えられなくなっていました。妹を呼びにいき、病院へ駆けつけたときにはそのような状態でした。親父殿の母親を迎えに言った時は落ち着いていたものの脈拍が薄くなっていました。

 母方の祖母を迎えにいって病院に戻ったのは午後7時45分頃でしたが、その時には呼吸が既に止まっていました。しかし、心臓は動き続けていました。
 看護士は「めずらしい、誰かを待っていらっしゃるんでしょうか」と言っていたそうです。

 心臓が鼓動を止めたのは、それからすぐの八時半でした。

 親父殿は実家に私が戻ってくると決めた事を直接は言いませんでしたが、すごく喜んでいたと聞きました。戻ってきてホッとしたんでしょうか、体調が悪くなりはじめたのもそこからすぐでした。病院でも私が戻ってくるまで頑張ってくれていました。

 最後の最後まで待ってくれていたのかなと、祖母も言っていましたが、私自身もそうとしか考えられません。

 病名がわかったときから本人も私も長くないことはわかっていましたが、そこからの二年半という時間の長さは私が考えていたより遥かに長いものでした。その間に私と妹はそれぞれ結婚しましたし、去年は父親と最後の長距離ツーリングである北海道へも行けました。

 大きな心配事はほとんど片付いてはいましたが、本人はまだまだやりたかったことは、何一つ身の回りの整理をせずに逝ってしまった事実からもたくさんあったんだろうと思います。

 これからしばらくは「親父殿だったらこんな時に何を言うだろう、どうしたいと思うだろう」と考えながら私たち家族は生きて行くのでしょう。

 親父殿が生きている間はそんなことを考えたこともありませんでしたが、弔問客の数や人々が口にする言葉、残していった思い出の中の姿、今私がいまここにいる事実、通夜の深夜にまだ生きているかのような親父殿の顔をみて、自分の父は一般人ではあったものの偉大な人だったのだという思いが少しずつ大きくなっています。

 もし私が再び生まれ変わることがあっても、また親父殿の息子として生まれたい。

 私は父の息子で幸せでした。

2010/01/12

WEBサイト

一般的に企業がWEBサイトを持つ意味は、コマーシャルであるということは間違いないと思うわけで、売り上げに寄与しないWEBサイトは存在価値がないだけのお荷物である、というのが現在の持論。

そう考えた場合、普通の企業(WEBサイトを作ってもらう側)は基本的に高い料金はらって作ってもらうわけですから「売り上げアップ」を大抵は目的にするわけですけれども、じゃあ今その企業さんからもらった情報とやってることだけを並べて売り上げが上がるの? って話しなわけで、そこから一歩踏み込んだブランド力を上げるだとかニッチでも特定の層の人たちにリーチしたいだとか、固有の目的を持って作成に入るのが win-win の関係を作るのが大原則だと思います。

けど地元(広島)のWEB屋を見てると、どーも街全体の製造業気質みたいなものに影響を受けてるっぽいような気がしてなりません。まあWEB屋のサイト、売り文句だけを見ての率直な感想ですが。
具体的にいうと「こんなのが作れます!」ばっかりで、「おたくの企業にこう寄与できます!」がない。

自分がその分野で力を発揮できるかというと、そうじゃないですけど経営者だけではなく一従業員もそのへんの勘違いしちゃいけないんだっていう意識は必要じゃないの、と思う今日この頃です。

2010/01/10

まだ来ない 27インチ iMac を待ちながら

引越し荷物の片付けもいよいよ最終盤に差し掛かっていますが、ここからが「えーっとこれはどこに入れたらいいんだろう」と悩むような細々としたものが大量に残ってて頭を抱えています。

まあ2部屋に収まってたものを一部屋に入れようとしてるのが間違いなんですけどねぇ。

CD はもともと残していたのがそこそこの数でてきたので、Mac がきたら iTunes
にもう一度エンコードのレートをあげて録音し直そう、その後で処分したろうと思ってるんですが、まだ来ないので片付きません…。

ノートPC の冷却ファンがブン回ってシューとかうぃーんとか常に音を発してるので、手元から音がしてる状況を一刻も早く何とかしたいです。

19インチの液晶に上海問屋で買ってきた安いモニターアームを組み合わせて机につけたらいい感じですが、画面の広さの問題でそっちばっかり見てたら正面じゃないから首が痛くなってきました。こっちはこっちでまた問題。メイン画面はやっぱり正面にしないといけないのを実感してしまいました。

2010/01/04

英語でいうところのホームは、我が家に限って言えば、嫁さんがいればどこであってもホームかな。


と思った転入手続きをした本日でした